空気遠近法の解説に誤りが多いという悩み

昨今SNSを利用していると流れて来るお絵描きハウツーの中にはいい加減な解釈や誤解に基づくものが多いので頭を抱えます。その誤解というのは基礎的な美術や科学的な視野で物事を判断出来てないようなものです。プロや講師ですら間違った解説したりするから恐ろしい。

例えば空気遠近法の解説において「遠近感を出すために~色(白や青)を入れましょう」「遠くの景色ほど青い」という解説が散見されますが。もうここで止まっている時点で時点で空気遠近法を誤解して覚えてます。

何度も言います。 間違いです。絶対鵜呑みにしないでください。

空気遠近法の本質は、単に「遠くを青くする」という表面的なテクニックにあるのではありません。大気による減光や光の散乱といった物理現象を理解し、それがどのように視覚に影響するかを踏まえたうえで、絵画表現として応用することにあります。

例えば、下に示した絵は空気遠近を強調して描いたものですが、遠景は「青く塗られている」というよりも、空の色に溶け込んでいくように表現されています。これは、距離が増すにつれて物体固有の色やコントラストが失われ、最終的には背景である空の光と区別がつかなくなっていくという視覚的な現象を意識した結果です。

そのため、空気遠近法において重要なのは「青い色を使うこと」そのものではなく、「その距離で支配的になる空の光の色や明度に近づけていくこと」だと言えます。状況によっては、それは青ではなく、白に近い色や、夕景であれば橙や赤みを帯びた色になることもあります。

空気遠近法とは色相の問題というより、光と大気によって風景がどのように視覚的に変質するかを捉え、それを絵画として再構成するための考え方なのです。

それって凄く当たり前のことなのですが、何故か抜け落ちてるんですよね…。

 

【大気減光

太陽光を含む光は、空気中を進む過程で大気中の分子や微粒子によって散乱・吸収され、次第に減衰していきます。私たちが遠くの景色を見るとき、その光は近くの景色よりもはるかに長い距離の大気層を通過して目に届いています。そのため、距離が遠くなるほど光は散乱の影響を強く受け、色のコントラストや彩度が低下します。結果として、遠景は色味が薄くなり、立体感が乏しく見えるのです。

 

【ミー散乱】

大気の状態は日によって異なりますが、空気中の湿度が高い場合や、塵やエアロゾルなどの微粒子が多い環境では、ミー散乱が起こりやすくなります。ミー散乱とは、光の波長と同程度、あるいはそれより大きな粒子によって生じる散乱現象で、特定の波長に偏らず、可視光のさまざまな波長を比較的均等に散乱させる性質があります。そのため、散乱された光が多くの波長を含むほど、私たちの目には白っぽく見えるようになります。雲や霧が白く見えるのは、このミー散乱によるものです。

遠くの景色を見る場合、光はより長い距離の大気を通過するため、こうした散乱が幾重にも重なります。その結果、距離が増すほど景色は白く霞み、色の彩度やコントラストが低下していきます。極端な例として、霧に覆われた高層ビル群を観察すると、手前よりも奥にある建物ほど白く溶け込むように見え、輪郭や形状が次第に判別しにくくなることがわかります。

また、ミー散乱では散乱と同時に光の直進成分が減衰するため、遠方の物体ほど明暗差が弱まり、立体感が希薄になります。この現象は霧の日に限らず、晴天であっても大気中の水蒸気や微粒子の影響によって程度の差こそあれ常に生じています。こうした大気による視覚的変化は「空気遠近法」として古くから美術表現に取り入れられており、特に古典絵画に見られる誇張された遠近感や奥行き表現は、ミー散乱を含む大気光学的現象を的確に捉え、意図的に強調したものだと言えますね…。

 

【レイリー散乱】

私たちが普段「空は青い」と感じるのは、主にレイリー散乱によるものです。大気中の窒素や酸素のような非常に小さな分子は、波長の短い光ほど強く散乱するため、青い光が空全体に広がって見えます。

しかし太陽が低くなると、光は空気の中を長く通り、青い光は途中で散乱され尽くしていきます。その結果、目に届く光は次第に減衰し、相対的に赤い光が強く残るため、夕焼けは赤く感じられます。

つまり、空の色は一定ではなく、光の通り方と空気の状態によって常に変化しているわけです。絵における空の色とは、その瞬間の光の関係をどう切り取ったか?なのです。

 

【空気遠近は物理現象でしかない】

これらの要素が複合的に作用することで、遠くの景色ほど彩度やコントラストは低下し、輪郭は曖昧になり、全体の色味は大気中で散乱している光の波長へと引き寄せられていきます。私たちは、その結果として生じた「目に届いた光」を見ているに過ぎません。

多くのハウツー解説に共通して見られる問題は、この点を見落としていることにあります。つまり、科学や物理現象という前提が抜け落ちたまま、一部の結果だけを技法として扱ってしまっているのです。

繰り返しますが、空気遠近は物理現象です。
それは常に存在する自然法則であり、絵画における空気遠近とは、その物理的現象によって成立した視覚体験を、絵という表現体系の中に落とし込んだものです。それらは強調・単純化・記号化されることはあっても、根底にある原理は変わりません。

したがって、本当に理解すべきなのは「何色を使うか」ではなく、「なぜそう見えるのか?」、それを「どのように自分の表現へ落とし込むか?」という点です。

視覚表現とは、物理現象としての光を、人間の認知と感性を通して再構築する行為であり、その意味で美術と科学は常にセットです。

 

【つまり地球外では見え方が違うのでは?】

はい、ずばり、その通りです。

火星では昼間の空は黄色や赤みがかった色をしていますが、夕焼けの時間帯には空が青く見えます。これは、火星の大気が地球とは密度も成分も大きく異なるため、先に述べたレイリー散乱とミー散乱のバランスが地球とは逆の働きをするからです。

一方、月から見た地球が非常にくっきりと鮮やかに見えるのは、月面やその周囲の宇宙空間にはほとんど大気が存在しないためです。大気による散乱や減衰がほぼ起こらないため、約38万kmという距離があっても、惑星の輪郭や色彩が損なわれることなく目に届くのです。

 

【いい加減な解説でも実際に成立してしまうことが多い】

これは推論になりますが、「遠くには青を入れる」「青白くすると奥に見える」といった解説が多いのは、その程度の説明でも多くの絵では実用上問題が起きにくいからでしょう。

時間帯を特に設定していないキャラクター主体のイラストでは、暗黙のうちに昼間の光で描かれていることが多く、空が青い状況が前提になります。そのため、「空気遠近=青」と説明しても成立してしまいます。

私たちは日常的にも、遠くが青く見える景色を多く目にしています。その経験が「遠くは青いものだ」という先入観を生むのです。

さらに、青は後退色であり、青みに寄せた色は奥まって見えるという美術的性質も、この説明を補強しています。

 

【こんなこといちいち考えてられないよ!】

そうです。これは原理の話。いちいち細かく考えて絵なんか描けるかっ!という気持ちもわかります。自分もそこまで厳密に考えてはいません。その代わりに「実際の景色」を観察してナチュラルに見える表現を模索しています。答えなど最初から目の前に転がっているのです。

なにより原理を知るというのは、正しく描けという話ではないのです。原理を知れば自分の絵を描くときに自信をもって自由にアレンジできるというのが私の考えです。知らないよし知っていた方が強みになるのです。

 

【実は怖いネットのハウツー】

何年も前になりますが、「マットペイント」という言葉が誤って使われていることを指摘したことがあります。SNS上でも繰り返し注意してきました。写真をテクスチャとして用いた緻密な絵を、誰かがマットペイントと呼び始め、その誤解が広まってしまったためです。

最近はさすがに、こうした誤用は減っていると信じたいところです。

本来、マットペイントとは映画における撮影技法、またはそのために制作される絵画を指します。平たく言えば特撮の一種で、写実性が求められるため、写真素材が使われることもあります。

ネットでは、古典的な技法や基礎的な学問よりも、「表面的なテクニック」や「学校が教えない〇〇」といった情報のほうが(仮にそれが間違いても)注目され支持されがちです。しかし、本当に重要なことは、たいてい初歩的で基礎的な部分にあります。空の色はなぜ青いのか——そう感じたなら、光の原理や色彩学といった分野の書籍にあたることこそが、確かな理解につながります。

 

 

中世ヨーロッパの都市住宅のアレ

medieval timber framing house

中世~近世頃のヨーロッパに建てられたこの手の半木骨造の都市住宅は、上層階が道路側に張り出しているケースが良く見られるわけですが…さて、この張り出しは何という名称なのか気にしたことがなかったために少し調べてみました。

「Jettying」と言うらしいです。

張り出した部分は「jetty」と呼ばれています。「jetty」には複数の意味があり日本語訳では桟橋、突提といった意味になります。ニュアンス的には張り出した状態のものを指すのかもしれません。

この張り出し部分ですが、なぜそうなったかには諸説があり、都市の過密化が著しかったゆえに床面積を増やしたかったという説が有力です。あとは雨が下層階にかからないようにするためとか…。

16世紀ごろまで多用されたこの手の建築でしたが、過密化が著しかった都市において、採光や空気循環の悪化による不衛生さ、火災に対する脆弱さ、不安定な構造による危険性などの問題もあり、やがて一部の国や都市においては規制や禁止の対象となり、次第に姿を消していきました。(ルーアン→ペストの流行により16世紀に禁止。ロンドン→ロンドンの大火により17世紀に禁止…など)

jettying
おまけ

World of Warshipsのシナリオで巨大川内と戦う

World of Warshipsのシナリオ「チェリーブロッサム」に登場する巨大川内改二。体力392万の化け物です。強い。


圧倒的でかさ


踏み潰そうとしてくる


攻撃が通らない(´・ω・`)


ロード画面に浮かび上がるシルエット


追い詰められる川内


撃破╰( ´◔ ω ◔ `)╯

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ある日突然「絵を描きたい」と言い出す人々

昔とある絵描きの気になる発言を見たときのことでした。

本当に素質のない人間をやる気にさせて、結果的に無駄に時間を浪費させ、あとは放置。
これって残酷な仕打ちでは?(要約)

…たしかに
そう言えばそんなことが何度かあったなと、過去を振り返ってみたものでした。挑戦する権利は誰にでもあって、やってみたらできたという例もありますが…本当にダメだったパターンもあるもので、更に当人だけの問題ではなく周囲を巻き込んでいるケース。これがマズイ。

また、本当はやる気がないのに、やる気あるアピールをするせいで、結果的に関わった人をウンザリさせる事例と言うのは、組織内部の人材教育や、学校、趣味の世界、様々な人間関係で度々起きるもので、それは絵という世界もでも同じだったりします。

プロアマ問わず、絵描きがこうした問題に振り回されるケースが度々散見されます。
以下のその一例


【大前提】

この文章は、私が過去に振り回された、幾度かの経験に基づいており、
もしあなたが描ける人であって、あなたの周りに「絵を始めたいです」と急に言い出す人がいた場合。あるいは、あなたが急に「絵を始めたいと思います、教えてください!」等と周囲に言いたくなった際のマニュアルです。また、これから絵を描こうとする人々の筆を折らせるという意図は一切ございません。しかしながら、そこで誰か他人の力を借りようとしたときに、本当に自分に向いているのかどうか、今一度冷静に考えてほしいと感じています。
※ここで言う描ける人はアマプロ上手い下手関係なく、絵を描くことが好きで生きがいと感じてる人のことです(以下同じ)。

まず…そもそも本気で絵を描きたい人間は、「絵を始めたい」などと言う前にサッサと描き始めてます。言葉にする時点で不穏な空気が漂っていますので周囲の人間は身構えてください。
ここではそういう人物を「絵を始めたい君」と命名します。

→そもそも無視すればいいじゃない?
絵を始めたい君は承認欲求が前面出ています。いざ描き始めてみると、落書きを見せながら「上手く描けない」「誰か助言を」「アドバイス欲しい」等、本気でそう思ってるか否か周囲に頑張ってるアピールを頻繁に行います。経験則から無視できる人もいるでしょうが、場の空気や人間関係から必ずしもそれができるとは限らないです。


【絵を始めたいと思います!】

さて、絵描きは教えたがりが多いです。私もです。だから「絵描き仲間が増えるよやったね!」と至れり尽くせりになった後に、結果的に相手に失望するケースが多いです。相手も「そこまで本気じゃななかったのに…」と余計なお節介に苦悩するでしょう。お互い不幸せにならないためにも、意識の差異を再認識いたしましょう。
ただ、有言実行タイプの人間はおりますからこの限りではありません。

まずは、絵を始めたい君特徴を見ていきましょう…

→動機が弱い
絵を始めたい君の動機は以下の通りのケースが多いです。

・絵描き同士が仲良くしていて羨ましい
・絵描きがチヤホヤされていて羨ましい

上記のような絵描きがを長年絵を描いてきた「結果」がほしくて、絵を描きたいというなら向いてません。「絵を始めたい」と言い出した人間が、何らかしらの疎外感からそう発言したかどうかは見逃せないポイントです。他にも様々な弱い動機がございますが、いずれも結果の先取りをしたいという共通点が見られます。

さて、絵描きも当然そういった承認欲求や人間関係を欲しますが、それが最優先ではありません。なんため?自分のために描いてます。まずは自分が自己満足できるという大前提の上に成り立っているんです。僕はこれを留守番中に一人で積み木遊びができる能力と称しています。

→でも、反応を欲しがっている絵描きや上手く描けないことを悩んでる絵描きはいますよね?
はい、当然です。絵描きも人間ですので、自分が生み出した作品に対して承認欲求が生まれるものです。子供が絵を描いて「ママこれ見て~」と親に見せに行くことはおかしなことではありません。上手くいかなければ悩みます。ですが、彼らは悩みつつも、いい結果も悪い結果も生み出し続けます。いい結果にならなければ試行錯誤します。向いていない人はまず結果を出しません。そこが問題です。
絵を描く人間が最も愛するのは絵を描く行為です。ゲームもします、旅行にも行きます。でも、最優先は絵です。紙と鉛筆が目の前にあれば何らかしらの落書きを自然と描いてしまうくらいです。

→そもそも絵を描くのが好きではない
この手の人種は口癖の様に「上手くなれば好きになる」と言いますが、そんなことにはなりません。好きでなければ上手くならないからです。
そして上手い人たちは最初は下手だったという事実すら認めようとしないか「才能」で片づけようとします。逃避に走り出したらもう向いてないも同じなので、匙を投げましょう。

RPGに例えましょう。初めはあなたは雑魚敵にすら容易にボコられる虚弱体質勇者です。目の前の敵を倒し、経験値をため、そして次のステップへ登っていき、最終的にラスボスを倒すことができるまでに成長できるのです。その成長過程が面倒だけど面白い。絵も同じで、成長の過程に価値を感じないなら向いていません。絵はまさにゲームです。好きでもないゲームをわざわざ遊ぼうとは思いませんよね?

もしかしたら好きでもないそれも、続ければ確かに好きになるかもしれません。
そういう例は多いのです。ですが、それはその人自身の問題であって周りはどうすることもできません。

→質問のタイミングがおかしい
絵を描ける人は「首と肩のあたりの描写が上手くいかないので教えてくれませんか?」「階段のパースを取りたいのですが上手くいかないんですよね」という感じの具体的な質問ができます。ですから適切な答えを貰えるわけです。

逆に「絵が上手くなりたいけどどうすれば?」等という質問では「デッサンやりましょう」「沢山描くことですかね?」としか返せません。

そこで次のステップです。その人は何を理想としているのか?

→理想がない
…理想はチヤホヤされたりグループの輪に入ることが最優先になってしまうので、こういう人は、憧れの作品は?理想とする絵描きは?描きたいものは?と聞かれた際に答えが非常にあいまいです。具体的な返答ができるかどうかはかなり重要です。

「好きな絵描き?いっぱいいますね選べません。描きたいもの?何でも描けるようになりたいです。」

こういう答えが返ってきたら周囲は匙を投げる準備が整います。
反面、絵を率先して描こうとする人間は今描きたいものが大変具体的です。

「〇〇さんみたいな画風が理想ですね!」「好きな絵描きはいませんが、自分の住んでる街並みを水彩画で表現したいんです!」「推しキャラのエロ画像描きたい(理想のシチュエーションを説明しながら)」

こういう人に対しては周りもいろいろ教えやすいでしょう。仮に上手くならなかったとしても、自分のために絵を描き続けるでしょう。だって好きなんですから…。
それでもなお、やる気はあるんです!という雰囲気を醸し出しているなら、ある程度は続くかもしれません。しかし…

→思っていた程やる気がなかった(本気でなかった)
時間がたつと疑念が生じます。本当はやる気ないのでは?と

絵を描くこと自体は誰でもできます。紙と鉛筆さえあればよいのです。
ただし、その人が理想とする、周囲からチヤホヤされるレベルの絵に到達するには困難が伴います。そこを知った途端にやる気をなくすわけです。結局は周囲の注目を集めたくて「絵を始めたい」と言っただけの可能性もあります。

時期的に周りも絵を始めたい君に若干嫌悪感を示し始めます。


【それでも絵を続けたい絵を始めたい君】
「絵を始めた君」に進化しました。一部の人はまだ親切に付き合ってくれるでしょう。このタイミングで絵を描く楽しみに気が付けたなら大変ラッキーなのですが…(そういう人もいます)

そうはならなかった絵を始めた君…

→受け身である
受動的では絵は描けません。絵描きは非常に能動的な生き物です。

絵を始めた君は、目的の設定が曖昧なので自分でやるべきことを見つけられません。
常に他人からの説明をそのまま受け取り、うんうん唸りながら、なぜそうなのかを理解しないまま、同じことを繰り返します。ですから楽しくないわけです。周りも目的があいまいである以上適切な指導はできません。

絵とは小さなステップを地道に登っていくのです。このステップの設定は、自分が何をやりたいかが明白でないと設けることさえできないのです。

→臆病である
周りは親切に教えます。だから引くに引けなくなってしまうわけです。
内心本人は、数々の客観的事実から自分には向いてないと感じていますが、周囲が熱心であるあまりに本心を言えません。周りも「絵を始めた君は描くには向いていない」とはっきり言うこともできません。あきからに温度差が生じているのに、互いの親切心が空回りしてしまい悪循環を生みます。そういう意味では絵を始めた君も被害者と言えるでしょう。(冒頭の引用に通じます)


【更にこういう症状は注意】

→眼高手低である
成長するに従い見識が広がります。プロの絵描きが描いたハイクォリティな作品をたくさん見ることでしょう。当然…そうした作品と自分の絵を比べるわけです。絵を始めた君が評論気質で理想が高い場合はもう続きません。描き始めの人間が上手く描けないのは当然ですが、上述してきた通り、能動的に学ぼうとしないゆえに、誰得な(この場合自分得ですらない)作品を量産し続けます。お世辞で褒めていた周りも量産される似たような絵に対してかける言葉がありません。すると本当につまらなくなって来るので、絵を描かなくなりフェードアウトです。

→自虐が多い
褒める気もなくします。下手だとか言いながら見せた絵に「そんなことないですよ~」と言ってほしい感が日々感じられるので、周りは次第に離れていきます。


【絵を始めた君はモチベが続かない】
絵を始めた君あたりから、絵の上達法に関しては、技法所やベテランの方々が言ってるそれそのままを学んでいく必要があります。考えながらも模写をしましょう、パースを取りましょう、色は、デッサンは…etc もう頭がパンク状態です。
描ける人は一度のこんなにたくさんのことを学んだのか?
違います。そんなことはありません。
順番は違えど、ちょっとずつ学んでいったに過ぎないのです。

→何故それができるのか?
目的がしっかりしているからです。
例えば建築物のある背景を描くために、最初に人体の骨格を学ぶ必要はありません。目的がしっかりしていれば情報の取捨選択ができ、目の前にどかっとおかれた情報の数々に圧倒されたりはしません。絵を始めた君は、当初の動機が原因で目的がありません。いくら説明されても腑に落ちない情報の数々に、理想とのギャップ、自身の無力さを感じやる気を失ってしまうのです。

逆に別にプロみたいにならなくてもいいやと好きで描いている人は強いでしょう。技法に捉われずに好きなものを好きに描き続けます。


【おまけ】

→絵って辛いんですね?なんで続けてるんですか?
ダクソ3で理不尽に固いボス敵に何十回も殺され続け、FF5でうっかりセーブを忘れた状態でレベル5デスを食らってパーティ全滅して「はぁこんなクソゲー二度とやるか!!」とふて寝しても、結局はそのゲームをやってしまう。達成した時に、何とも言えない達成感を感じて悦に入る自分がそこにいる。絵とはそういうものなのです。

その気持ちを理解できるか否かです。


【最後に…】
ここまで書くとまるで距離を置きたい人種かの様に感じるかもしれませんが、そうではありません。(もちろん距離を置きたいようなのもいます)。絵を描くのには向いていないだけかもしれません。しかしながら「絵を描きたい君」の特徴は当人の人格面や環境に影響されていることが多いです。それは絵を描く才能という範囲ではなく、日常生活や興味関心、行動力、人間関係等のよりマクロな分野が影響しています。もっとも私は心理学者でも精神科医でもありませんので、この辺りで割合します。

描ける人と描きたい君の意識の差が予め分かれば、互いに無駄な時間は浪費しないで済むと考えています。その判断基準はどこなのか? そういった話でした。

マットペイントという言葉の誤用

マットペントという言葉の説明や認識として、

・写真を使った壮大な風景画
・リアルで壮大な風景画
・写真を下地に絵を描くこと

などが見受けられますが、これらはいずれも間違いです。映画関係者が聞いたら眩暈を起こして倒れるレベルです。

 

そもそもマットペイントとは映画におけるSFX(特殊撮影技術,特撮)の一つです。カメラによる撮影が困難なシーンにおいて、実写映像を絵で補完する技術、あるいはそのための絵を指す言葉がマットペイントです。

 

Q、つまりどういった事です?

A、こういうことです↓

3Dなどを使ったデジタル合成ができなかった時代は、カメラの前にガラスを置き、そこに絵を描くなどして様々な景色を合成しました。こういった特撮技術をマットペイントと呼びます。(引用元→https://vfxforfilm.wordpress.com/2013/01/03/mattepainting/

 

他に、具体的に例を出すと(古い映画ばかりで申し訳ない)、以下のようなものをマットペイントと呼ぶのが正解です。

※映画スピードにてバスが高速道路の切れ目をジャンプするシーン。この切れ目は、実際にはつながっている高速道路の映像に、切れ目をマット画合成したもの。マットペイントは実際にはそこにないものを描き替えたり補完したりする。

※映画ダイハード2のラストシーンは本物の映像ではなく絵でした。


※映画インディ・ジョーンズ~魔宮の伝説~のクライマックスの断崖。
これは実写にリアルな崖の絵を合成して撮影されたものでした。マットペイントは現実にはない景色をでっちあげることができる。

 

しつこいようですが…

写真を使った絵=マットペイント

ではない
もっとも勘違いの多い誤用です。マットペイントの合成先は主に実写映像です。ですから写真並みにリアルに見せるように描く必要があります。
特にデジタルマットペイントにおいて写真を使うことが多いのは、合成先が実写であり手っ取り早くリアルに描くうえで、それが最適だったという結果でしかないわけです…。なお写真を下地に絵を描く技法のみを指すのならフォトバッシュという専用の言葉があります。

 

このマットペイントという用語の誤用。写実系絵描きがマットペイント風に描いた絵を見る側が取り違えたのか、はたまた、技術部分だけ独り歩きして広がってしまった結果なのか、イラスト業界に根強く蔓延するほど広まってしまいました。いまやイラスト技法の解説サイトまで誤った解説をする有様です。

 

マンサード屋根・ギャンブレル屋根・半切妻屋根…

不意にこの建築はマンサード屋根ではなくギャンブレル屋根ですね…と近代建築を巡りながら写真を載せている方を見かけて、そういえば、マンサードギャンブレルは良く混同されると思い、これまたよく混同される半切妻屋根と一緒にまとめてみました。

とにかく良く混同されるというこの3種類(試しにググって見りゃわかります)。この記事を書いた時点で日本語版wikipediaのマンサードの項目にある写真すら間違えている(マンサード屋根でない写真を載せている)という恐ろしさ。書籍や建築趣味系のブログですら怪しい解説が多い。また欧州(フランス・ドイツ辺り)ではギャンブレルとマンサードを区別しないことになっているらしい(?)ので、更にややこしいことになっています。あえて識別するなら米英由来で比較的新しいギャンブレルとブルボン朝時代のフランス由来のマンサードは発祥地も歴史的な経緯も違うので、どちらを継承したかという点が重要なのかもと。

近代建築畑でこの3種の混同は散見されますね…(これは主観になりますが)
例えば、稀にマンサード屋根と紹介されている、宮城県知事公館はマンサード屋根ではなく実際は半切妻屋根であったり、マンサード屋根の駅舎と紹介されている西桐生駅は、厳密にはギャンブレル屋根と称するのが適切であったりするわけですが…一度定着するとなかなか直らない。本場フランスでは区別してない(らしい)からマンサードでいいだろ!と言われればそれまでなのですが…。

で、典型的なマンサードってどういうの?

↓こういうのです。

パリはとにかくマンサード屋根で構成された建築物が多い。



ヴェルサイユ宮殿も大部分がマンサード屋根。


ウィーン歴史地区

日本の例としては小樽の日本郵船ビルなどが厳密な意味でのマンサード屋根となります。

◆追記

やはり、フランスなどでは特に区別していないということが調べているうちにわかって来たので図解です。

検証が甘いので間違てるかもですが、混同の最大の要因として、地域よって定義がバラバラだったというオチでした。

では妻面が切り落とされているマンサードと、ギャンブレルはどう区別をつけるのか?…通常マンサードは軒が飛び出たりしないそうだ。ただ軒が飛び出ていないギャンブレル屋根も北米には点在するため、結局は根っこの部分から区別していくしかないというお話でした。

※以前は妻面を正面とする傾向がギャンブレルの特徴では?と考えていましたが、初期の北米のギャンブレル屋根の建築の例を見るに、その法則は全く当てはまりませんでした。

言葉は万能ではない。他人に絵を依頼するときの注意。

知り合いがアマチュアの制作で、共同作業でRPGを作っていたときのお話しです。

RPGの敵のグラフィックとしてドラゴンの画像必要になり、アマチュアのドッターにドラゴンのドット絵を発注。なかなか出来の良いドラゴンが出来上がり、追加要求として、攻撃モーションを依頼したときに問題が起きました。

【以下その問題】
ドラゴン

ややうろ覚えですが、「要求通りに仕上がってるけど、違う、そうじゃない」という事態に。

これは互いに「光る」の定義が一致していなかったことが第1原因。
つぎに情報の刷り合わせが不十分であったことが第2の原因。

結果的には当人たちは笑い話で済んだというわけですが、これがプロの世界でも起こりうる(というか起こります)。笑い話では済みません…。

当時の知り合いの言い分を聞くに、「口が光るというと、まずはカァ! ってなるのをイメージしますよねw それくらいわかってよww」といった具合。残念ながら、それでは相手に通じないというのが、当時すでに絵仕事を始めていた私の感想。(そのドッターさんも怠慢なところがあるようで、擁護はできないのですが。)

「言葉は万能ではない」

これは重要です。

例えば、近未来の世界観で「サイバー」な感じでお願いします! と依頼が来たとしましょう。
サイバーなイメージとは何か? AKIRA?ブレードランナー?F-zero?(例えが古くても申し訳ない) 各々違うはずです。

対処法としては、先のドラゴンの件は、近いイメージの画像を相手に送れば問題は起きず、また、受ける側も具体的な要求を相手に聞き返していれば良かったという結論です。

 

これからイラストレーターや、グラフィッカーになる人へ。実績公開不可という案件を請けるか否か

画像は無関係

これからイラストレーターや、グラフィッカーになる人へ。
職歴に書いてはいけない(実績公開不可)という案件は請けるか否かは良く考えましょう。

こんなこと書いたら仕事こなくなる気がして怯えつつも、たまには真面目なことを書こうかと思います。ここ数年この手の案件が増えている傾向にあります。残念ながら大変嘆かわしいと感じているのが実情です。

例えば、私なら、○○というゲームに携わりましたと、このサイトの職歴欄に書いてありますし、ポートフォリオにも記載します。特定の作品に携わっているということは、それは仕事をする上で営業する上で信用になる意味でもあるのです。ところが、それが出来ないということです。特に自由業・自営業は仕事が次に続かないと死にます

この手の話題については、ツイッターといったSNSのような「愚痴の垂れ流し場」なら、本職の人間にそういう悩み不満を、たくさん目にします。ただ、リアルタイム情報が流れていってしまうので、文章を記録する意味では不得手です。なので当サイトの記事に記録しておこうと思います。

なお、絵の単価が云々とか、ブラックで詐欺な案件がとかそういう話はしないです。

◆単発なお仕事
まず、このような案件が多いのは主に単発の仕事。その単発の仕事はどういう経緯で回ってきたものかというと、

・どこかの業者が社内で処理できず、下(下請け企業・フリーランス)に丸投げしたもの
・あるいは丸投げされた下請け企業が社内で処理できず、更に下に投げたもの(孫請けと言います)
・上から来た仕事を下に投げる業者から投げられたもの。(俗に言うイラスト仲裁)

いずれにせよ、他者の尻拭いをしているわけです。

不満点は多いけど金もらえるならちょっとくらいいか、生活かかってるし。
とか考えながら請け負うわけです。実際それで業界が周っていますし、私自身も恩恵を受けているのであまり文句は言えません。

単発案件ならべつに実績公開できなくてもいいや。そう思うかもしれないです。ちなみに私はそう思こともあります。ただ、何故実績公開不可なのか腑に落ちない依頼も多いわけです。仕事のやり取りでこれを説明する業者は未だにおりません。

◆継続的な仕事でも
さて、今は私は、とあるブラウザゲームの仕事に役1年半ほど携わり続けています。最初は「ちょっとだけ」と言いつつ、継続的に仕事が来るという利点があり続けています。自分のしていることが世に出ない、お世辞にも良い金額とはいえないという具合です。流石に厳しくなってきたため、せめてその作品に携わっていると周知されることに意義を見出していたのですが、実は実績公開不可だったと聞かされ、ショックを受けて、現在交渉中といった具合です。言葉は悪いですが本音は「せめて口止め料よこせ」という感じです。(そういう経歴がありまして、今現在、継続的な依頼でなおかつ実績公開不可案件は請負不可あるいは交渉とさせていただいています。)

冒頭でその手の案件を請けるかどうか良く考えろと書きましたが、請けるにしても、継続するにしても、せめて金額や公開条件は先方と交渉してください。浮ばれないと思いつつも請負い続ければ、最終的に自分の首はおろか、これから業界に上がってくる人々の首すら締めかねないのです。

◆それでも請け負う
上で散々言っておきながら、私は実績公開不可案件も請けています。多くは単発依頼です。何でもかんでも発注を断っていては、やはり死にます。ここで重要なのは仕事に過剰に愛を持たないことです。投げやりに聞こえるかもしれませんが人は愛着がわくほど、見返りを求めるものです。ここはひとつ完全に割り切ってしまうことです。先に言ったことと矛盾してしまいますが、仕事は仕事と割り切り、次の日には終わった仕事は忘れることも大事です。名前を出せる仕事までの繋ぎ程度に考えておくのがベストかと思います。

反面、継続的に携わった仕事は愛が芽生えます。私は愛が芽生えました。だから浮ばれないとも考えるようになったのです。

○一応フォロー
実際のところ、実績公開不可が必ずしも悪いことではないという事例もあります。特定の作品に携わったと明示することは、その作品に対して生じる「責任」を大なり小なり追うということです。責任が追うのが嫌な人にはもってこい? 確かに気軽ですが(ごめんなさい)そういう話ではないです。SNSやネットが発達した昨今において、いわゆるクレーマー気質な人々が、企業の枠を飛び越えて外注絵描き(下請け)にクレームを入れるという事案が稀にありました(某スマホゲーや某ブラウザゲーなど)。外注側からしてみれば直接開発に携わっているわけではないのですが、クレーマーにはそこがわかりません。実績として名前が出ないことは、面倒なことまでは請け負わなくて良いということでもあります。